1945年8月、無念の思いを抱いて亡くなられた方々の気持ちを想い、
また今なお、その心とからだの苦しみに耐えていらっしゃる方々のことを考えながら、
広島・長崎がこの地球上で最後の被爆地となることを心から願い祈ります。
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2012年(平成24年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
67年前、一発の原子爆弾によって、広島の街は、爆風がかけめぐり、火の海となりました。
たくさんの人の尊い命が、一瞬のうちに奪われました。
建物の下敷きになった人、大やけどを負った人、家族を探し叫び続けた人。
身も心も深く傷つけられ、今もその被害に苦しむ人がたくさんいます。
あの日のことを、何十年もの間、誰にも、家族にも話さなかった祖父。
ずっとずっと苦しんでいた。
でも、一生懸命話してくれた。
戦争によって奪われた一つ一つの命の重み。
残された人たちの生きようとする強い気持ち。
伝えておきたいという思いが、心に強く響きました。
故郷を離れ、広島の小学校に通うことになったわたしたちの仲間。
はじめは、震災のことや福島から来たことを話せなかった。
家族が一緒に生活できないこと、突然、友だちと離ればなれになり、今も会えないこと。
でも、勇気を出して話してくれました。
「わかってくれて、ありがとう。広島に来てよかった。」
その言葉がうれしかった。
つらい出来事を、同じように体験することはできないけれど、
わたしたちは、想像することによって、共感することができます。
悲しい過去を変えることはできないけれど、
わたしたちは、未来をつくるための夢と希望をもつことができます。
平和はわたしたちでつくるものです。
身近なところに、できることがあります。
違いを認め合い、相手の立場になって考えることも平和です。
思いを伝え合い、力を合わせ支え合うことも平和です。
わたしたちは、平和をつくり続けます。
仲間とともに、行動していくことを誓います。
平成24年(2012年)8月6日
こども代表 広島市立比治山小学校 6年 三保 竜己
広島市立安北小学校 6年 遠藤 真優
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長崎 「平和への誓い」
67年前の今日、この浦上の上空に原子爆弾が投下され、数千度の熱線、強烈な爆風、想像を絶する放射線を浴びせられ、一瞬にして市街地は廃墟と化し、無防備の市民十数万人が死傷したあの凄惨な光景が昨日のように鮮明に甦り、この胸が締め付けられる思いです。
私は当時15歳、自宅は原爆投下地点から約700メートル西の城山町にあり、当日は、3`南の三菱電機の地下工場で軍需品の生産に従事しておりました。何の前触れもなく停電し、トンネル内が真っ暗になり、一呼吸して、「ドーン」と強烈な爆風でその場に吹き倒されました。気が付くと入り口の方が騒然として外の工場、事務所に居た人達が雪崩れ込んでおり、「工場は全滅だー」と殺気立った声で叫んでいました。懐中電灯で照らすと殆どの人が負傷しており、手の施しようがありませんでした。
しばらくして、友人と2人で工場を出て城山の自宅へ向かいました。港の対岸にある県庁舎が延焼中で、工場前の海岸通りは負傷者が助けを求めて右往左往しておりました。旭町の住宅街は延焼中で通れず、山越えしようと稲佐山へ向かいました。三合目くらいに入りましたが、木は倒れ、あちこちに煙が立ち込め、陰を求めて負傷者が10人、20人とたむろしており、息絶えた子どもを抱いて項垂れている母親、遺体に寄り添って泣きじゃくる子ども、「水をくれー」と叫ぶ声、市街地を見下ろすと街は廃墟と化し、煙の中には大型鉄筋の残骸が突き出していました。淵神社に出て梁川橋まで煙の中を一気に走り、やっとの思いで抜け出しました。橋の上には人、馬の黒焦げた遺体が散乱し、遺体の中には口から内臓が飛び出している者もありました。三菱製鋼の工場はアメのように曲がり、工場の中から必死に助けを求める悲鳴が聞こえてきましたが、どうしようも出来なかったので浦上川へ降りました。川の中には焼け焦げた人など無数の負傷者が水を求めて折り重なるように倒れており、足の踏み場もないくらいで、流れている遺体もありました。上流へ急ぎましたが竹岩橋が真ん中から折れて川に落ちており、その隙間を抜けて城山の石段を登り、道に出たところ、近くの三菱製鋼の鉄屑置場の鉄屑が真っ赤に焼けて、まるで溶鉱炉のようになっておりました。これでは人間はひとたまりもないと思いました。
赤茶けた畑の中を我が家へ急ぎました。家は跡形もなく、近くに母と弟の黒焦げた遺体が並べてありました。父が大やけどを負いながらも先に帰って重傷を負った妹2人、弟1人を防空壕に寝かせていました。口も利けず、目も見えず、水も飲めず苦しさに呻くのが哀れで早く楽になれればと思いました。夜になっても周囲の山々が赤々と燃えていました。散らばっている木片を集めて母と弟の遺体を火葬しました。肉親の行く方も知れず亡くなった人々のことを思えば、親、兄弟の最後を見届けることができたことで救われた思いになりました。妹2人、弟1人は5日後に息を引きとりました。
戦争がなければ、核兵器がなければこの悲劇は起こらなかった。いかなる国の核兵器も廃絶し、戦争のない平和な社会を目指して命の限り訴え続けることをお誓い申しあげ、15万余の犠牲者の霊のご冥福をお祈りいたしますと共に、今日もなお後遺症に苦しんでおられます方々の一日も早いご快復を祈念いたしまして平和への誓いといたします。
平成24年 8月 9日
被爆者代表 中島 正コ
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2011年(平成23年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
今年、3月11日、東日本では、大震災によって、たくさんの人が命を失いました。
今でも行方がわからない人がたくさんいます。
多くの人が大切な家族や友だちを失い、津波で何もかもなくなった被災地の姿に、
わたしたちは言葉を失い、悲しく、胸が苦しくなりました。
66年前の今日、午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。
爆風が何もかも吹き飛ばし、炎がすべてを焼き尽くし、人々の当たり前の生活と、
多くの尊い命が一瞬にして奪われました。
どんなに苦しかったでしょう。
どんなにつらかったでしょう。
どんなにくやしかったでしょう。
わたしたち一人一人は、だれもがみな大切な存在です。
それなのに、どうして人間は、たくさんの命を犠牲にして戦争をするのでしょうか。
戦争を始めるのは人間です。人間の力で起こさないようにできるはずです。
悲しみに満ちた広島に草木が芽生えました。
人々は、平和への強い思いをもって、復興に向けて歩みはじめました。
未来をつくるのは人間です。
喜びや悲しみを分かち合い、あきらめないで進めば、必ず夢や希望が生まれます。
わたしたちは、人間の力を信じています。
人間は、相手を思いやり、支え合うことができます。
人間は、互いに理解し合い、平和の大切さを伝え合うことができます。
わたしたちは、今を生きる人間として、夢と希望があふれる未来をつくるために、
行動していくことを誓います。
平成23年(2011年)8月6日
こども代表 広島市立三篠小学校6年 福原 真拓
広島市立己斐小学校6年 藤田 菜乃歌
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長崎 「平和への誓い」
原爆投下から、66年の歳月が流れました。被爆地長崎市内を見ても原爆の痕跡が少なくなりました。
しかし、原爆の犠牲となった私の親族、友人、知人達の無念さを心にとめ、人々の記憶から消えてよいのかと思い、私の被爆体験が、彼らの生きていた証となることを望みます。
昭和20年8月9日、私は17歳でした。当時は、爆心地から1,200mほど離れた長崎兵器大橋工場に通っていました。その日の朝、いつものように母に「行って来る」といって家を出ると、「今夜は帰るのか」と大きな声がしました。振り返ると、母が笑顔で道に立っていました。その夜は、防空当番で泊まる日でしたので、「今夜は帰らん」と返事をすると、みるみる母が寂しそうな表情に変わったのです。これが母との最後の別れとなりました。この時の母の姿、声が、今でも瞼と耳に残り、決して消えることはありません。
工場に着き、昼近く、隣の人達と雑談をしていた時でした。突然、ピカッと閃光が走り、そして背後から「ウワッ」と、とてつもなく大きな音がしたのです。すぐに振り返ると、窓の外は真っ赤な火の海でした。数秒後に強烈な爆風に襲われ、息もできないほど地面に叩きつけられました。幸いにも怪我はしませんでしたが、障害物があまりにも多く、必死の思いで外にでました。すると、工場の屋根は吹き飛び、見渡す限り建物はすべてなぎ倒されていました。「これはどうしたことか」と、意味が分からず唖然としていました。私が真っ先に心配したのは母のことでした。ふと、母が、「畑に行く」と言ったのを思い出し、必死で畑へ走りました。しかし、そこに母はいませんでした。次に自宅を目指し、何とか辿り着くと、その手前で弟が倒れているのを見つけたのです。よく見ると頭に5cmほどの穴が開いていて、死亡していました。他の家族も心配で隣組の防空壕に探しにいくと、その中に姉を見つけました。しかし、名前を呼ぼうと肩に手をかけると姉は冷たくなって死亡していました。「弟に続いて、姉まで死んでしまったのか」と、初めて、悲しみがこみあげてきました。引き続き母を捜し、途中、大怪我をした女子挺身隊の人を隣町まで運んだりしましたが、やはり母を見つけることはできませんでした。後日、木材を集めて姉と弟の火葬を見守りながら涙の内に済ませて生前の思い出を胸にえがきながら、二人の白い遺骨を拾い集めました。結局、原爆で私の家族五人が亡くなりました。母ともう
1人の弟や甥は遺体さえ見つかりませんでした。
戦争中とはいえ、核兵器の原爆を使用し、無残な悲劇が長崎を襲いました。無防備の、幾万の市民の尊い命を無差別に奪い去り、人道的に赦される行為ではありません。この悲劇が二度と繰り返すことのないよう、世界の国々の指導者に、被爆者代表として重ねて訴えます。又、今もなお、後障害に苦しむ、被爆者の救済を要望致します。
現在、世界の国々では、民族間の対立や、他国による侵略等で、紛争が止むことなく続いております。どこの国の人々も、平和の実現を望んでおります。ことしは福島原発の事故がおき、多くの人が放射能の恐怖にさらされています。私の残りの人生を核兵器と戦争のない世界の実現、また、放射能に脅かされない平和な世界の実現に尽くすことを約束して、私の「平和への誓い」といたします。
平成23年8月9日
被爆者代表 松尾 久夫
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2010年(平成22年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
ぼくの大好きな街、広島。緑いっぱいの美しい街です。
65年前の8月6日、午前8時15分。
人類史上初めて、原子爆弾が広島に落とされました。
一瞬のうちに奪われた尊い命。変わりはてた家族の姿。
原子爆弾は人々が築きあげた歴史や文化をも壊し、
広島の街を何もかも真っ黒にしてしまったのです。
しかし、焼け野原の中で、アオギリやニワウルシの木は、緑の芽を出しました。
人々も、街の復興を信じて、希望という種をこの地に蒔きました。
傷つきながらも力いっぱい生き、広島の街をよみがえらせてくださった多くの方々に、ぼくたちは深く感謝します。
今、世界は、深刻な問題を抱えています。
紛争や貧困のために笑顔を失った子どもたちもたくさんいます。
私たちの身近でも、いじめや暴力など、悲しい出来事が起こっています。
これらの問題を解決しない限り、私たちの地球に明るい未来はありません。
どうしたら争いがなくなるのでしょうか。どうしたらみんなが笑顔になれるのでしょうか。
ヒロシマに生きるぼくたちの使命は、過去の悲劇から学んだことを、
世界中の人々に伝えていくことです。
悲しい過去を変えることはできません。
しかし、過去を学び、強い願いをもって、一人一人が行動すれば、
未来を平和に導くことができるはずです。
次は、ぼくたちの番です。
この地球を笑顔でいっぱいにするために、
ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ、
伝えていくことを誓います。
平成22年(2010年)8月6日
こども代表 広島市立袋町小学校6年 高松 樹南
広島市立古田台小学校6年 横林 和宏
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長崎 「平和への誓い」
私が原爆に身をさらしたのは、16歳と9ヶ月の時でした。お天気がよいときは、誰でも心は晴れますが、毎年8月9日、この日だけは、太陽がギラギラ照りつけるほど、私の心は曇ります。1945年8月9日午前11時2分、ちょうどその時、長崎の空はきれいに晴れていて暑かったからです。
よく知られているように、当時の私たち学生は学校から離れて、軍需工場で兵器生産に従事していました。私たちは、戸町のトンネル工場と呼ばれていたトンネルの中にこしらえられた工場で、マルヨン艇というベニア板づくりの特攻隊用のボートをつくっていたのです。そこは爆心地となった松山町からは、6キロほど離れていました。
戦争末期とはいえ、交代で休日もありました。8月9日は、たまたま、私も、親しかった同級生の中村君も、休みの日だったのです。私たちは休日を利用して下駄を作ろうということになり、私は爆心地から1.4キロのところにあった家野町の中村君の家へ行き、縁側で下駄作りに取りかかっていたときに、原爆の熱線、放射線を浴び、爆風で吹き飛ばされて、気を失ってしまったのです。
やがて私は、「助けてくれ、助けてくれー」という悲しそうな中村君の声で正気に戻りました。中村君は、倒れた家屋の下敷きになっていたのです。一人の力ではどうにもできず、通りかかった人にも手伝ってもらって、ようやく中村君を救い出しました。
しかし、彼はその晩、息を引き取ったのでした。私は上半身と足にやけどを負っていたので、その後、救援列車で運ばれて諫早の海軍病院に入院しました。
9月になるとその病院は米軍に接収されることになり、退院させられました。原爆は私の皮膚を焼いただけではなく、20歳代になると白血球が異常に増える病気を引き起こしました。結婚して子供ができると子供の健康のことがとても心配でした。私は、こんな原爆を、そして核兵器を絶対に許すことはできません。
ことしは、ニューヨークで核不拡散条約再検討会議が開かれました。昨年4月のプラハでの演説の中でオバマ大統領が「核兵器を使ったことがある唯一の核兵器保有国であるアメリカには、行動する道義的責任がある」と述べた印象が強かっただけに、私もこの会議の推移を見守りました。残念ながら、核兵器廃絶への期限を定めることはできませんでしたが、核兵器をなくすという方向は、全会一致で確認できました。これからは、日本が先頭に立って、核兵器の完全禁止、廃絶へ向かって全世界をリードする時です。そのためにも、日本は核の傘から完全に離脱し、非核三原則を法律として確立し、遵守することが必要です。こうして、北東アジアに非核兵器地帯をつくり、それを世界に広げていくことで、核兵器のない世界は必ずできると、確信しています。ここにその決意を披瀝し、私の平和への誓いとします。
平成22年8月9日
被爆者代表 内 田 保 信
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2009年(平成21年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
人は、たくさんの困難を乗り越えてこの世の中に生まれてきます。
お母さんが赤ちゃんを生もうとがんばり、赤ちゃんも生まれようとがんぱる。
新しい命が生まれ、未来につながっていきます。それは「命の奇跡」です。
しかし、命は一度失われると戻ってきません。戦争は、原子爆弾は、尊い命を一瞬の
うちに奪い、命のつながりをたち切ってしまうのです。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
それは人類が初めて戦争による被爆者をつくりだした時間であり、
世界が核兵器について真剣に考え始めなければならなくなった時間です。
あの日、原子爆弾は、広島の街を一瞬にして飲み込みました。
建物は破壊され、多くの人々が下敷きになりました。人々の皮膚は、ボロ布のように
垂れ下がり、「助けて」、「水をください」と何度も言いながら、亡くなっていったの
です。それは、人間が人間らしい最期を迎えられなかった残酷な光景でした。
多くの夢や希望を一瞬にして吹き飛ぱされた人たちの悲しい、「闇」の世界でした。
世界の国々では、今も、紛争や暴力によりたくさんの命が奪われています。僕たちの
ような子どもが一番の犠牲となり、体に傷を負うだけでなく、家族を失い心に大きな
傷を負っています。日本でもまだ多くの人たちが原爆の被害で苦しんでいます。入退
院を繰り返す被爆二世の人もいます。だから、まだ戦争は終わったとは言えません。
これから先、世界が平和になるために、私たちができることは何でしょうか。
それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、
けんかやいじめを見過ごさないこと、
大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で、世界の人たちに思いを伝えること。
今の私たちにできることは、小さな一歩かもしれません。
けれど、私たちは、決してあきらめません。
話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、
核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、
原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実を見つめます。
そして、世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います。
平成21年(2009年)8月6日
こども代表 広島市立矢野小学校6年 矢埜 哲也
広島市立五日市南小学校6年 遠山 有希
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長崎 「平和への誓い」
1945年8月9日11時2分、原爆が投下され一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね。
64年前と同じ8月9日が、蝉の声と共にまためぐってきました。当時8歳だった私は、爆心地から500m離れた城山町に新しい家を建ててもらい、家族9人で賑やかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。その朝までは家族一緒だったのに「考えられない11時2分」がやってくるのです。その朝まで元気だった家族、一緒に遊んでいた友達が、私の目の前から消えてしまいました。
その後、毎日泣いていました。46年間、原爆の話ができませんでした。原爆のことは、見たくない、聞きたくない、私の頭の中から消えてほしい・・・、私は、原爆から逃げていたのです。けれども、私の家族が生きていたことを書き残したくて、ある本の中に、旧姓徳永アヤ子の名前で私の体験を書きました。これがきっかけとなり、私は今、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。
全身火傷を負った4歳の弟と私だけが生き残り、知らない田舎に引き取られました。母がいたら「おんぶしてよ、抱っこしてよ」と弟は甘えたかったでしょうに、甘えることもできず、治療のときは我慢できずに泣いていました。私も腕に火傷をしていましたが自分の治療のことは覚えていません。たぶん弟と一緒に泣いていたんでしょう。
弟は自分の体の痛みを我慢するだけ我慢し、地獄のような苦しみだけを背負って昭和20年10月23日に亡くなりました。わずか4年の短い弟の人生でした。
私は戸外で遊んでいましたので、全身に放射線を浴びていました。髪の毛は抜け、歯茎からは出血し、体全身具合が悪いのに、病院に通うことができませんでした。両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味わわせたくありません。何十年たっても消えることのない苦しみと悲しみを生み出す核兵器は地球上にはいらないのです。
アメリカは核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として行動する道義的責任があり、核兵器のない世界の実現を目指すことを、アメリカ大統領として初めて明確にしたオバマ大統領のプラハでの演説は、64年目にしてやっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じています。
私は世界中の人々と一緒に、この地球上から核兵器をなくして安心して暮らせるように、一人でも多くの人に平和と命の尊さを伝え続けていくことを誓います。
平成21年8月9日
被爆者代表 奥 村 ア ヤ 子
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2008年(平成20年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
突然のするどい閃光(せんこう)と爆風(ばくふう)で、数え切れない多くの尊(とうと)い命が失われました。
あの日、建物疎開(そかい)や工場で働くために出かけていった子どもたちは、63年たった今も帰りません。「いってきます。」と出かけ、「ただいま。」と帰ってくる。原爆(げんばく)は、こんな当たり前の毎日を一瞬(いっしゅん)で奪(うば)いました。
原爆は、やっと生き残った人たちも苦しめます。
放射線(ほうしゃせん)の影響で突然病(やまい)に倒れる人。
あの日のことを「思い出したくない」と心を閉ざす人。
大切な家族や友人を亡くし、「わしは、生きとってもええんじゃろうか?」と苦しむ人。
でも、生き抜(ぬ)いてくれた人たちがいてくれたからこそ、私たちまで命が続いています。平和な街を築き上げてくれたからこそ、私たちの命があるのです。
今、私たちは、生き抜いてくれた人たちに「ありがとう」と心の底から言いたいです。
忘れてはならない原爆の記憶や、核兵器に対する怒(いか)りは、年々人々の心から薄(うす)れていると思います。しかし、人の命を奪う戦争や暴力は、遠い過去のことではありません。
この瞬間にも、領土の取り合い、宗教の違いなどによる争いによって、小さい子どもや大人、私たちと年齢の変わらない子どもたちの命が奪われています。
失われた命の重さを思う時、何も知らなくて平和は語れません。
事実を知る人がいなくなれば、また同じ過ちがくり返され、戦争で傷つき、命を失った人たちの願いは、かき消されてしまいます。だから、私たちは、大きくなった時、平和な世界にできるよう、ヒロシマで起きた事実に学び、知り、考え、そして、そのことをたくさんの人に伝えていくことから始めます。
また、私たちは、世界の人々に、平和記念式典が行われ、深い祈(いの)りの中にある広島に来てほしいと思っています。ヒロシマのこと、戦争のことを知り、平和の大切さを肌で感じてほしいのです。
そして今こそ、平和を願う子どもたちの声に耳をかたむけてほしいのです。
みなさん、見ていて下さい。
私たちは、原爆や戦争の事実に学びます。
私たちは、次の世代の人たちに、ヒロシマの心を伝えます。
そして、世界の人々に、平和のメッセージを伝えることを誓います。
平成20年(2008年)8月6日
こども代表 広島市立幟町小学校6年 今井 穂花
広島市立吉島東小学校6年 本堂 壮太
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長崎 「平和への誓い」
あの日、私は9歳でした。当時、長崎市南部の南山手町に祖父母、両親、兄一人、5人の姉妹の大所帯で生活していました。
8月9日、朝からの空襲警報が解除になったので防空壕から出て空を見上げていると、友だちが防空壕に忘れ物をしたと言うので一緒に中に入りました。
その時です。突然強い風が吹いて持っていたロウソクの灯が消え、暗闇の中に火の塊のようなものが飛んできました。やがて近所の人たちが次々に駆け込んできて、皆口々に「大変な爆弾が落ちた」と叫んでいました。
私を捜しに来てくれた母はガラスの破片で背中に傷を負っていました。末の妹にお乳を飲ませていたとき、爆風で割れた窓ガラスが背中に刺さったのです。家族の無事を確認しましたが、浦上地区の中学校に登校した3歳年上の兄だけは夜になっても帰ってきません。その日の朝、兄はどういうわけか「頭が痛かけん、学校に行きたくなか」と渋ったのを、父が「なんか男が、頭の痛かくらいで学校ば休むな」としかったのです。
無理に送り出した父の悔やみようは大変なものでした。翌日から毎日毎日、父と母は浦上一帯を捜し、黒焦げの死体や、「水が欲しい」と足をつかむ瀕死の人たちの顔を一人ひとり見て回ったと聞きました。結局、兄を見つけることはできず、中学校で焼いたたくさんの死体から骨を一本だけもらい葬式を済ませました。私は今でも、兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないかと思っています。
両親は、ものすごい放射線を浴びていたのです。母は翌年の10月に亡くなりました。33歳、妊娠5か月でした。父もその4か月後に亡くなりました。残された私たち姉妹は別々の親戚に引き取られ、ばらばらの生活を強いられました。その後、姉と妹の二人は原爆症とおぼしき病気で亡くなりました。
悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です。核兵器の廃絶と平和を求める世界の人々の願いとは裏腹に、今なおアメリカなど大国のエゴで大量に保有され、拡散されつつあります。東西の冷戦が終わっても、民族や宗教の違いや貧富の差からくる戦争は現在も世界中で絶え間なく続き、多くの人々が苦しんでいます。
しかし、わが国は戦後63年間一度も戦争をすることなく、一人の日本人も戦争で殺されたり、他国の人を殺したりしていません。これは、多くの人々の犠牲の上に定められた平和憲法のおかげです。私は、この平和憲法と非核三原則を日本のみならず世界中に広げていくことこそが、戦争をなくし、核兵器の増大と拡散をとめる有効な手段であると考えます。
地球上のすべての人々が、いつまでも平和で豊かに暮らしていくことを願ってやみません。
2008年(平成20年)8月9日
被爆者代表 森 重子
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2007年(平成19年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません。
あの日、街は真っ赤な火の海となり、何もかもが焼かれてなくなりました。川は死者で埋まり、生き残った人たちは涙も出ないほど、心と体を傷つけられました。
目も鼻も口もわからないほどの大やけど。手足に突き刺さった無数のガラス。
あの日、ヒロシマは、怒りや悲しみのとても恐ろしい街でした。
これが原子爆弾です。これが戦争です。これが本当にあったことなのです。
しかし、原子爆弾によっても失われなかったものがあります。
それは生きる希望です。
祖父母たちは、廃墟の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。多くの犠牲の上によみがえった広島をもっと輝かせたいという思いで、原子爆弾によって焼け野原になった街をつくり直してきました。そして、今、広島は、自然も豊かでたくさんの人々が行き交う、笑顔あふれるとても平和な街となりました。
今、テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。
そして、私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体を壊しています。
嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。
途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。原子爆弾や戦争の恐ろしい事実や悲しい体験を、一人でも多くの人たちに「伝えること」は、私たちの使命です。
私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。
私たちは、ヒロシマを「遠い昔の話」にはしません。
私たちは、「戦争をやめよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。
そして、世界中の人々の心を「平和の灯火」でつなぐことを誓います。
平成19年(2007年)8月6日
こども代表 広島市立五日市観音西小学校6年 森 展哉
広島市立東浄小学校6年 山崎 菜緒
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長崎 「平和への誓い」
あの、一発の原子爆弾が、この空で炸裂した日の、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。この頃、6歳の私は、爆心地より1.3キロほどの家野町の自宅から、そう遠くない小高い丘で、友達と蝉とりに夢中でした。そこには、古びた山小屋があり、雑木林が茂っていて、緑の木立で蝉が合唱していました。
私が、一緒に付いてきた3才の妹に虫籠を手渡し、樹の幹の蝉に、虫アミの竿を伸ばし始めた時でした。急に、飛行機の爆音がしました。驚き、怖くて、うろたえ、母の注意がよぎりました。友達は、慌てて駆け下りました。
私は、立ちすくむ妹を強引にひきずって、山小屋に逃げ込みました。その瞬間、まっ白い光と爆発、爆風、熱風を浴び、すさまじい破壊が始まりました。
私は、木片・瓦礫と化した木立や小屋の片隅から、吹き飛ばされて気絶していた妹をかき出しました。
自宅方面は、空も町も赤く染まって見え、その辺りから、衣服が燃えて狂ったようにもがく人、半身焼けこげた人、肉がえぐれて血まみれになった人などが、次々、丘の峠に逃れてきては、町外れへと消え去りました。
私は、妹を背負ってさまよいました。力尽きて立ちすくんでいました。だれか、助けてくれそうでしたが、私の体をみて、もうダメだろうと、置き去りにしました。
私は、左下腹部に竹が突き刺って肉がえぐれ、血を流しながら妹を背負っていました。妹は、衣服がこげて血を流し、震えながら、「お母さん、お母さん・・・」と、か細く母を呼び続けます。はじめて、「お父さん、助けて」と、戦死して帰らぬ父が欲しくて、泣き叫びました。
その頃、爆心地・周辺・いたるところで、7万数千人が亡くなり、私を含め、7万数千人が傷つきました。
あの、一発の原子爆弾は、空前の破壊力で放射線を浴びせ、一瞬にして、無差別大量殺戮をやってのける地球の人類の悪魔でした。
時を追うごとに増え続ける未曽有の悲惨さ。今も、後障害に苦しむ多くの被爆者。あまりにも、不条理であります。
あの日の、長崎市民は、みな、だれでも、人類の子であります。
あの日の、広島と長崎は、人類の広島・長崎でもあります。
その両市への原爆投下は、人類への投下であって、向うべき人類の真理に背き続けて、それぞれの立場や都合で、それを正当化し、肯定し、擬制するものではありません。
人類の真理。それは、『平和にいだかれた幸福と繁栄』。これこそ、人類が命を懸けて子孫に贈り、未来を託す真理であります。
今、私達は、とりまく経済・社会の環境の中で、それぞれの立場や都合で、『よろしく・おかげさまで・ありがとう』を、言ったり言われたりしていることが多いと思います。しかし、人の得意とすることで滅びゆくことなく事を成すには、どのような立場の人でも、『平和にいだかれた幸福と繁栄』に向けて進路を取り、その真理を尋ねて、『よろしく・おかげさまで・ありがとう』を言ったり言われたりする―そうした、勇気と信念をもって、誰もが心豊かな幸福を共有できるバランスのとれた環境をみんなの力で創っていくことが必要なときでは。そう思えてなりません。
私は、これからも、核兵器のない世界の恒久平和を願って、足元から微力を尽くすことを申し上げ『平和への誓い』とさせていただきます。
平成19年8月9日
被爆者代表 正 林 克 記
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2006年(平成18年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分。
一瞬にして広島の街は何もかも破壊されました。原子爆弾は、高温と爆風で人々をおそい、さらに死の放射能で街を汚染していきました。そして、その年の終わりまでに約14万人もの命が失われました。14万の夢や希望、未来が奪われ、数え切れないほどの悲しみが生まれたのです。
平成17年(2005年)11月22日。私たちの身近なところで、とても悲しい、辛い事件が起きました。その事件によって、私たちが当たり前だと思っていた日常は壊れてしまいました。好きな友だちとおしゃべりしながら登下校したり、一人で外へ出ることもできなくなりました。そして、私たちは事件を通して、一つの命の重みを知りました。
この時奪われた命も、原子爆弾や戦争で奪われた多くの命も同じ命です。一つの命について考えることは、多くの命について考えることにつながります。命は自分のものだけでなく、家族のものであり、その人を必要としている人のものでもあるのです。
「平和」とは一体何でしょうか。
争いや戦争がないこと。いじめや暴力、犯罪、貧困、飢餓がないこと。
安心して学校へ行くこと、勉強すること、遊ぶこと、食べること。
今、私たちが当たり前のように過ごしているこうした日常も「平和」なのです。
世界中のどこの国も「平和」であるために、今必要なことは、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、つまりお互いの心を開くことです。人間は言葉をもっています。心を開けば対話も生まれ、対話があれば争いも起きないはずです。
そして、自分だけでなく他の人のことを思いやること、みんなと仲良くすることも「平和」のためにできることです。
私たちはこれまで、祖父母や被爆者の方から体験を聞いたり、「平和」について学習したりする中で、原爆や戦争のことについて学んできました。しかし、まだまだ知らないことがたくさんあります。これからもヒロシマで起きた事実に学び、それを伝えていかなければなりません。
私たちは、命を大切にし、精一杯生きることを誓います。
私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり、「平和」の扉を開くために一歩一歩、歩み続けていくことを誓います。
平成18年(2006年)8月6日
こども代表
広島市立南観音小学校6年 新谷 望
広島市立楽々園小学校6年 スミス・アンジェリア
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長崎 「平和への誓い」
8月9日、今日は、「ながさき平和の日」です。
1945年(昭和20年)8月9日のこの日を、人々は決して忘れ去ってはなりません。
美しかった長崎の街は、アメリカによって投下された、たった一発の原子爆弾で、一瞬にして無惨にも壊滅しました。 「ながさき平和の日」には、「長崎を世界で最後の被爆地に!」との、核も戦争もない平和な世界を創ろう!という、切なる、そして強い意志が込められているのだと思います。
私は、女学校を卒業すると同時に、川南軍需工場に動員され、日の丸のハチマキをしめて一日一食で働きました。
夫は戦地に赴き、新婚生活や青春時代の楽しみなど考える暇もなく、銃後の守りにあったその日、21才の私は、旧小榊村で被爆しました。
生後わずか1ヵ月の長男を抱きかかえた防空壕の中で、空襲警報解除の知らせを伝え聞き、安心して外へ出ました。
家に帰り子どもを寝かせつけて、物干しに洗濯物を広げながら、少し暗くなったのに、キラキラする様な光を感じて、何か変だなあと太陽を見上げたその瞬間、ゴオーッという地鳴りと共に、物凄い強風で、その場に吹き倒されました。
何が何だか、全くわかりませんでした。
ふと気がついて見ると、倒れた場所から大分離れた所に居る事に驚き、おののいて急に子どもの事が気になり、家の中へ走り込みました。
足の踏み場もない様に倒れた家具などの隙間で、母がしっかりと長男を守っていてくれました。爆心地からは、山を越え、5.8キロメートルも離れているのにこの有様でした。爆心地に近い岩川町にいた叔母と姪は、爆死しました。
その日は息つく暇もなく、次々に船で送られて来る重傷者の救護に追われました。その中には学生さんが多く、皆若く前途のある人々ばかりなのに、全身火傷などで痛んでおり、喉をかきむしりながら、「水をください」「水をください」と叫ぶ姿に、この世の地獄を見ました。
「水を飲ませてはダメだ」との声にそっとかくれて、タオルに水を含ませ絞り入れました。蚊の鳴くような声で、「ありがとう」と力なくかすかに笑いながら死んでゆきました。「お母さん」と力づよく叫んで息絶える人など、次々に息をひきとる若人達になすすべもありませんでした。
つい3年前、55才を迎えた被爆二世の次男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から「次男の広さんの白血病は、母体からもらったものです」と言われたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでいます。
61年前の記憶を忘れることはありませんが、語る事、書く事の苦痛から、身を避けていた自分を反省し、今、戦争のおろかさ、怖さ、むごたらしさを「伝えなければならない」との切羽つまった思いがあります。それは、戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子に重なり、居ても立ってもいられないからです。
戦争が遺(のこ)す国民や被爆者への贈り物は、未来永劫(えいごう)にもう要りません。被爆二世、三世の援護も切実な事です。核が使われれば、逃れる方法はありません。
私達が生きている時代に、平和な世界になってほしい、そのためには、私も残された人生で、出来る限り努力し続ける事を誓います。
2006年8月9日
被爆者代表 中 村 キクヨ
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2005年(平成17年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」
戦争は人間のしわざです。
戦争は人間の生命を奪います。
戦争は死そのものです。
過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
広島を考えることは、核戦争を拒否することです。
広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。
これは今年亡くなった前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が1981年2月に、ここ平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前で世界へ発信したメッセージの一部です。
わたしたちは、これまでずっと世界平和の実現を訴えてきました。
しかし、世界では今なお核兵器は存在し、戦争やテロなどが絶えません。
そして、わたしたちと同じ子どもたちが銃弾や地雷に倒れ命を失っています。
身のまわりではどうでしょうか。子どもたちが命を奪われたり、傷つけられたりする事件が起きています。暴力事件やいじめもなくなりません。
本当に平和な世界を築くために私たちは何をしなければならないのでしょうか。
戦争、争い、いじめ、暴力。これらを起こすのは人間です。人間の心です。
だから、命を大切にする心、相手を思いやる心をふくらませていくことが大切です。
まずは相手のことを知り、違いを理解すること。
そして、暴力で解決するのではなく、話し合いで解決していくことがわたしたちにできる第一歩です。
ある被爆者の方の話を聞きました。
今まで被爆した時のことを人に話したことがなかったそうです。
たとえ、話をしても「あの時のことは誰にもわかってもらえない」と思っていたからです。
しかし、70歳を過ぎて、地元の中学生にあの日のことを話しました。
8月6日に起こったことを、原爆はいけないということを、戦争はいけないということを、どうしても知らせたかったのです。
被爆60周年を迎え、決意を新たにし、わたしたちは、被爆者の方々の願いを受け継いでいきます。
わたしたちは、核兵器の恐ろしさを世界中の人々に訴え続けます。
わたしたちは、ヒロシマを語り継ぎ、伝えていきます。
平和な世界を築くまで。
平成17年(2005年) 8月6日
こども代表
広島市立本川小学校 岩田雅之
広島市立口田小学校 黒谷 栞
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長崎 「平和への誓い」
60年前の8月9日、原子爆弾はここの500メートル上空で、炸裂したのでした。一瞬にして数万の人々を死へ追いやり、街を焼き尽くし、破壊し尽くしたのです。 生き延びた人たちは、60年過ぎた今日でも、原爆の後遺症に苦しみ続けています。
私は、女学校の3年生でしたが、その日はたまたま家にいました。学童疎開で家を離れていた妹も、久しぶりに帰ってきていました。ピカッと目を突き刺すような閃光が走ったのは、「少し早いけどお昼にしようか」と妹が疎開先から頂いてきた白米のおにぎりの包みを開いた時でした。原爆は、私の家から1.8キロのところへ投下されたのです。私は、10メートルほど飛ばされ、庭に叩きつけられました。土煙で視界は閉ざされ、その場にうずくまりました。
しばらくして視界がひらけてくると、あたりは見渡す限り、瓦礫が原となっていました。私は、一目散に近くの林へと走りました。どのようにして林へたどり着いたのか覚えていません。あちらこちらから被爆した人たちが林へ逃げてきました。衣服をもぎ取られ、裸同然になった人、胸をえぐられ、ピクピク動く心臓が見える人、前とも後ろともわからないほど焼け焦げた人、林の中はこのような人たちで一杯になりました。いつの間にか、私は意識をなくしていました。
この林で一晩過ごし、私を探す母の声で意識が戻りました。周囲の人たちほとんどが亡くなっていました。私はまた意識がもうろうとなり、死線をさまよったのです。
住まいが壊れ住めなくなった私たち一家は、8月19日に両親の故郷へ向いました。そこへ落ち着き、近所の医者に往診を頼みました。が、来てくれた医者は、息絶え絶えの私を覗き込むだけで、「死ぬものにやる薬はない」といったとか。「医は仁術」と聞いていましたが、戦争は医者の人間性までも喪失させるのでしょうか。
あれから60年、私は何とか生きて来ましたが、本当に長く苦しい道のりでした。こんな苦しみは、ほかの誰にも味あわせたくないと思っています。
それなのに、地球上に争いは絶えず、核兵器はなくなるどころか新しい性能の核兵器の開発さえ計画されていると聞きます。「ふたたび被爆者をつくるな」と命をかけて訴えてきた私たちの声は、どうして届かないのでしょうか。
でも私は諦めません。命ある限り、生き残っている26万の被爆者とともに、そして平和を求めて、国内外の皆様方とともに、「長崎を最後の被爆地に」と叫びつづけることを原爆犠牲者の御霊の前でお約束し、私の「平和への誓い」といたします。
2005年(平成17年)8月9日
被爆者代表 坂本 フミヱ
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2004年(平成16年) 広島・長崎 平和への誓い |
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広島 「平和への誓い」 (語り継ぎ、世界へ伝えていく)
「生きたい、そして、みんなと幸せに暮らしたい」
そんな願いもむなしく12歳の少女が亡くなりました。
2歳で被爆し、12歳で突然原爆症と診断された佐々木禎子さんは、入院生活を送りながら「生きる」ために、最期まで望みを捨てず、願いをこめてただひたすら鶴を折り続けたそうです。
59年前の8月6日の朝も、川と緑に囲まれた広島の街には、人々の変わらぬ生活がありました。戦争中とはいえ、それまでと変わらない夏の朝でした。
しかし、一発の原子爆弾は、そんな朝を人類が忘れることができない朝に変えてしまったのです。
熱線、爆風、放射線などにより、その年の末までに14万人もの人々が亡くなっていきました。そして、その後も放射線による障害により、多くの人々が苦しみ、命を失っていきました。
佐々木禎子さんもその一人です。
わたしたち広島の子どもは、毎年夏が近づくと、禎子さんの意思を受け継ぎ、世界の人々が幸せに暮らせることを願って鶴を折っています。
しかし、いまだに世界のどこかで戦争が行なわれています。
多くの人たちが日々恐怖に脅え、苦しみ、命を奪われています。
無数に埋められた地雷によって、多くの人々が傷ついています。
子どもたちまでもが武器を持たされ、戦いにかり立てられています。
そして、広島を焼き尽くした核兵器は、いまだに世界に存在しているのです。
戦争が生み出した悲しみは、憎しみを呼び、その憎しみがさらに深い悲しみを呼びます。
しかし、私たちが聴いた被爆者の方々の話は、憎しみではなく「こんな思いを、もう二度と誰もしてほしくない。」という強い願いに満ちています。
私たちは、この被爆者の方々の願いを私たちの願いとし、平和な世界をつくる努力をしていかなければなりません。
ここ平和記念公園には、毎日、日本の各地や世界中の国々から折り鶴が届けられます。その折り鶴を見ると、言葉、文化、宗教を越え、多くの人々が、平和への願いでつながっていることがわかり元気が出ます。
私たちは、戦争も核兵器もない世界が実現し、子どもたちが平和であることに感謝の気持ちを込めて鶴を折る日が来るまで、被爆の悲惨さや平和の尊さを語り継ぎ、世界へ伝えていく努力を続けていくことを誓います。
平成16年(2004年)8月6日
こども代表
広島市立段原小学校6年 河田 早紀
広島市立亀山南小学校6年 百合野 光哉
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長崎 「平和への誓い」
1945年、昭和20年8月9日11時2分、59年前の今日、ここの上空で一発の原子爆弾が炸裂しました。強力な熱線と放射線を全身に浴び、ものすごい爆風で吹きとばされた数多くの人々よ、「あつかったでしょう」「痛かったでしょう」「苦しかったでしょう」。
当時16歳だった私は学生の身で動員され、爆心地から1.4キロメートル離れた三菱兵器大橋工場内で被爆しました。無気味な閃光と地鳴りのようなごう音を意識した後、どのくらい気を失っていたのでしょうか。スレートやガラスなどの落下する物音で我に返ったものの、体は別の場所にとばされていました。やっと起き上がり見回した周囲に人影はなく、どうしてこうなったのか分かりませんでした。
破壊された工場から死にものぐるいで脱出して、近くにあった丘へ逃げました。丘の上から見渡した工場全体と、周辺の変わり果てた様子は自分の目が信じられませんでした。真夏の太陽はその輝きを失い、青空が消えた空へめがけて数限りない黒煙が立ちのぼり、それらの煙りの中には火柱を含んだのも見られました。ぼう然と立ちつくす丘で、足の甲に滴り落ちる血にびっくり仰天しましたが、寝冷え予防に母の言いつけで腹に巻いていたさらしもめんに気づき、あごから頭の傷口へ向けて無我夢中で巻きつけました。
一人二人と丘を下りる後に続き、あてどもなくあちこちとさまよい逃げ回った先々で、じっと正視出来ない大やけどや、ひどいけがでもがき苦しむ人々が、水と助けを必死に求めていましたが、誰一人に、何ひとつ応えることが出来ませんでした。頭からの出血で強い不安と恐怖が判断と分別を鈍らせたとはいえ、あの時何もしてやれなかった申し訳なさと心の痛みは今も消えません。
「原子雲の下で母さんにすがって泣いた。ナガサキの子どもの悲しみを二度とくり返さないように。」
これは「平和を祈る子」の碑文の一部です。
15年もの長い戦争がもたらした悪魔と言える原子爆弾によって、かけ替えのない貴重な命を奪われた数多くの人々は、どのような思いを残しながら、息を引き取っていったのでしょうか。さぞや残念無念の極みだったに違いありません。国際法と人道に違反した59年前の悲劇は絶対にくり返してはなりません。
世界の恒久平和に核兵器の廃絶は必要不可欠です。
核兵器と人類の共存はできません。
これからも「長崎を最後の被爆地に」の声を出し続け、新しい社会を担う若い世代に、あの日の体験を通して命の大切と平和の尊さを語り伝えていくことを誓います。
2004年(平成16年)8月9日
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